最近クローズアップ現代を日記のネタにすることが多くなってきた.
今回のテーマは広島の原爆投下について.被爆を体験してきた人が減り,できごとの風化が進んでいるという.日本とアメリカの現在と教育現場を取材し,いかに体験を伝えていくか,といった内容.
端的にいえば,体験を伝える側が,伝える内容について,原爆の被害だけに傾倒しすぎたのが風化が進んでいる一因だと思った.
これは環境問題と似ていると思う.原爆なら,「原爆投下→悲惨で甚大な被害を受けた.悲しみを生んだ→"ヒロシマ"を二度と繰り返してはならない」と言う感じで体験と反省を伝える.環境問題だと「人間の経済活動により砂漠化,大気汚染,オゾン層破壊が起こる→動植物が住めなくなる→環境汚染ダメ」という感じか.
広島の原爆投下は「歴史上の出来事」であり,環境問題は「(人間の活動による)自然現象」である.もっとメタな視点で見れば両方とも歴史だし現象だ.「似ている」と言ったのは,問題提起し伝える側が,原因と結果だけ切り取って強調して*1いないか,ということである.
僕は原爆投下を指示した人を今まで知らなかった.Wikipediaで調べてみるとハリー・S・トルーマン - Wikipediaらしい.どれだけの日本人がこのことを知っているんだろう.もしかして知らなかったの僕だけ?orz
指示した人を知らなくても体験を語り継いでいくことは出来る?確かにそうかも.幾ばくかの人は語り継いでいくだろう.一方でそうしない人もいるはずだ.
歴史も環境問題も原因と結果の繰り返しだ.なぜ原爆は投下された?戦争中だった,原子爆弾という兵器がすでに作られていた,指示した人がいた.日本がまだ降伏していなかった,….さらに,なぜ戦争は起き,なぜ原爆は作られ,なぜ投下を指示し,なぜ日本はまだ降伏していなかった?
原爆投下と惨状とその直接の反省だけでは,その部分の伝える質・量を増やしても意味がないと思う.テストに出る辞書的知識で発展がない気がする.その部分を伝えるのは歴史教育だけの問題であって,それ以外で伝えていこうというのは負担が大きくなる?そうかも.
……
どーでもいーこと
全然まとまらない文を書いた.これは単なるメモっちゅうか,掃き溜めちゅうか,ログ,そうそう,これがログっちゅうやつか.もう午前1時すぎやんorz.もう寝る.おやすみなさい.
*1:というと語弊があるかもしれない.伝えようとしている人には強調してない人もいるだろうし